第3話のこぼれ話
戦国最強と言われた二人の大名といえば、上杉謙信・武田信玄、この二人の名声は飛び抜けています。何度も戦った二人ですが、晩年にはお互い「気は許せないものの」戦場が別のところになることが多くなっていきました。
上杉謙信は新しく掌握し、敵対していた一向宗勢力の力の強い越中(現在の富山県)と能登(現在の石川県)にその力の大半を費やすことになります。
一方の武田信玄は、いよいよ上洛を目指すことになります。三方ヶ原の戦いにて徳川家康を一蹴、家康は浜松城に逃げ込みます。余談ですが、この際家康はやけっぱちの空城の計を仕掛けます。門を全て開け放ちこうこうと松明を燃やしました。武田はこれを見て策があると思い退却した・・・と徳川の文献には書いてありますが、実際は策があるかもしれないし、もはや戦う術の無い徳川にかまうことは無いという単に無視されたというのが現在の定説のようです。そしていよいよ織田と一戦・・・という直前に病気にて没します。
三国志の諸葛亮が病没後、その謀略で敵軍を逃げ帰らせた・・・という演技はありますが、武田信玄も完璧なまでの遺言を遺しています。
その一。自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事
その二。武田勝頼は、武田信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事 等々、重臣の何人かにも個別の遺言を遺しています。
この3話の中で兼続が「恐らく信玄死亡」と報告していますが、それは実際推測でしかはかれませんでした。信玄死亡後、数人の影武者が完璧に信玄の役割をこなしたため、忍者の報告ではそう言った情報は入ってきませんからね。それほどまでに徹底した信玄死亡の隠匿、逆に言えば、信玄にとって自身死亡後の武田の暗い未来はある程度予想できていたのかもしれません。
・・・その二に何か気になる一言がありますね。しかしこれはストーリーのネタバレになってしまいますので、後々にでも・・・
3話 殿の初恋の感想文
今回は乙女が出てくる回の感想文です。
腐女子としては、乙女はどうでもいいのですが。
無骨で無口で、口下手という景勝がすごくいい味出してましたよねー。
出てるシーンはすごく多いのに、セリフの少ないこと少ないこと。
そして、そしてそして
兼続とのラブラブシーンが激しかったですね!!!
(兼続が「景虎には○○では負けてるけど、景勝さまは……ありませぬ」
のあとにじゃれつくところなんか鼻血ものですよね)
そういえば信長が「天地人」の単語を発してましたね。
歴史にIf(もしも)があって、兼続の進言が通っていたら
どうなってたのかな? なんてちょっとだけ考えてしまいました。
もちろん、もしそうなった場合、どの勢力がどのように動いて
勢力図がどのように変化していたのかなどについては
知識がまったくないので、ここらへんは本当は歴史に詳しい旦那に
語ってほしいのですが。
あいかわらず感想文は書くつもりはないようです。
2話 泣き虫、与六の感想文
かたくなに「家帰るー、母上ー」とか泣いてた与六が
どうやって喜平次と心を通わせるのかが注目の回でしたが。
まぁー与六ちゃんのかわいいことかわいいこと。
喜平次はおむすびを差し入れようとしてるあたり優しい子だし
「上に立つものは泣いてはならぬ」とか言うあたり
さすがですね。
しかも!
それを聞いて「ずっと傍(そば)におる」と言うあたり
サムライ魂だなーとか思います。
しかし、9年後かな? 14歳になったらしい与六(兼続)が
やたら男前でこれまたびっくりです。
敵方(高坂弾正)を見つけて間近まで見に行くところは
小さいころと変わりませんね(笑)
来週は色恋の話が出てくるようですが。
乙女の話は適当に流していただいて、男の友情を描いてほしいもんです。
とか、先週も今週も男色ネタを書いてるわけですが
熱心な歴史ファンの旦那様に苦笑&失笑&説教されました。
「だったら感想文は自分で書けばいいじゃない」と言ったのですが
「俺は人物紹介だけで精一杯だから、いいの」とか言って
断固として書いてくれません。
非難だけするとは酷い話ですよねー?(笑)
1話 五歳の家臣の感想文
待ちに待った「天地人」の第一話「五歳の家臣」を見ました。
いやーーーーー、なんというか、子役の男の子の演技が上手すぎるといいますか
見てて本当に泣きそうになりました。
あと、輝虎(上杉謙信)役がすごいハマってます。阿部 寛さんですねー。
かっこいいです、しびれます。
今までヌケた役しか見たことがなかったので、ちょっとびっくりしました。
かっこいーです。まじで。
次回予告とかさらっと最後にやってましたが、見てみたところあれですね……
かなり……腐女子ウケが良さそうですよね(笑)
これはちょっと今年の夏のコミケとかが楽しみな感じです(爆)
生涯 あらすじ
樋口家の長男として生まれる。非常に有能・有名な武将だが、どのようにして上杉家に仕えるようになったか、その幼少期は不明。元服して最初の名前は樋口兼続。
俗説として上杉謙信の小姓として召し抱えられた(この説が有名だが、それを示す証拠は一切なし)とも、謙信の養子となった上杉景勝の近習だったとも言われるが、そちらも証拠はない。
20歳位で、上杉景勝に仕えていることは判明している。1578年絶対的な主君である上杉謙信が急死。この直後関東北条家からの養子である「上杉景虎」と、上杉謙信の遠縁である長尾政景の子供でその死後謙信の養子となった「上杉景勝」の間で、家督の相続争いである御館の乱(おたてのらん)が勃発する。
戦いは兼続のついた上杉景勝が勝利し、家督を継ぐ。そしてここで兼続にとって転機が訪れる。
御館の乱の恩賞のいざこざから、景勝の側近である直江信綱という武将が、自信に後継が無いまま同僚に暗殺されてしまう。この直江信綱自身はそれほど有名ではないが、その父親である直江景綱(この時点では既に病死)は上杉謙信の側近中の側近で上杉四天王の一人だった。あまりにも勲功の大きすぎる家臣の一族であるため、その家名断絶を惜しんだ上杉景勝の計らいで、樋口兼続が長尾家を継いでここに長尾兼続が誕生する。
政治力に優れた兼続は、この頃から上杉家の政治の大部分をこなすようになる。
その3年後には景勝の信任も更に厚くなり、兼続は外交と内政の殆どを取り仕切るようになる。この頃の日本は豊臣秀吉が全国を制覇し、上杉家はその友好勢力(豊臣家の五大老)として安定期に入る。ちなみにこの頃、上杉家の領地は越後(約40万石と推測)から会津120万石に転封(領地替え)となる。これは羽国(現在の山形県)に力をもっていた最上家への牽制と、何より独眼竜と呼ばれた仙台の伊達政宗への備えという意味が強い。つまり秀吉にとって、それだけ大事な友好国だったという意味である。ちなみにこの際、直江兼続は米沢城(現山形県米沢市)を拠城として任されている。この場所は仙台城の伊達政宗に非常に近く、また100年以上も伊達家の拠城でもあった超重要拠点である。このことから政治だけでなく軍事においても、兼続が主君から信頼され、重要視されていたことがわかる。
直江兼続は秀吉配下の石田三成と非常に仲が良かった。これは両者の性格によると思われる。関ヶ原で敗北したために悪役のイメージが広まっている石田三成だが、実際は非常に清廉潔白で、あまりに不正を嫌う為に逆に嫌われた人物でもあった。(ただし非常に横柄だったらしい。)これが同じく義理と正義を愛する直江兼続と合ったと思われる。
よって関ヶ原の戦いでは三成側に立った。徳川家康が上杉家に対して軍備の増強や内政の内容を咎める為送った詰問状において、主君の代理として返答した通称「直江状」はあまりにも有名。以下にその文を簡潔に記す。
Q1.家康の求めに応じて釈明のために上洛しないのは何事か。
A1.領国に帰国したのは9月である。正月に上洛せよとは逆に何事か。そのようなことをしては、内政等領国管理の時間がないではないか。更に言うなら冬の間は雪国の為移動が出来ない。そのようなこともわからないのか。
Q2.上杉家は大量に武器防具を買い込んでいると聞いた。それは謀反の為に軍備を増強をしている何よりの証拠ではないか。
A2.京都や大阪で生温い生活をしている者は茶器等を集めていればよろしい。しかし我々は武人である。武人にとっては武器防具を揃えることこそたしなみと心得る。
Q3.橋梁をかけ、街道を整備しているのは謀反の為に基盤を整備しているのではないか。
A3.謀反をするのであれば、攻め込まれぬ為に橋を落とし、道を荒れさせて置くべきである。論点が全くずれている。
といった形である。最後に、よくよく調べもせず讒言だけを信じて謀反を疑うのは、愚か者のすることである。それに当家より、勝手に他国と縁組みをしている無礼者(遠回しに、伊達政宗と縁組みをした徳川家康自身のことをなじっている)の方がよっぽど怪しいではないか。故豊臣秀吉の意志に背いてそのようなことを行っている者こそ、真の裏切り者である。
と、一刀両断している。あまりにも的確且つ無礼な返答状の為、家康は真っ赤になって怒ったという。(ただしこの文は原本が残っておらず、後世の創作とも言われる。)結果石田三成は負け、上杉家も存続の危機に陥ったが何とか断絶は免れた。
その後は徳川家との融和に努め、60歳で死去するまで上杉家の内政基盤を拡大し続けた。
天地人について